深大寺は、天平5年(733)に満功上人が開山したといわれている。
この地は天平時代、深沙大王の霊地とされている。豊富な泉水は昔この地に住む人々の心に水神信仰をもたらし、仏教としてもこの地に注目して寺を建て、水神と深沙大王とを結びつけたことが考えられる。
深大寺の名は、この深沙大王に由来している。境域2万坪、幽邃な自然にとけこんだ諸堂宇と、伝存する寺宝の数々に、古代以来の歴史と、その現代に生きる姿をうかがうことができる。
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石段を登って南向きの芽ぶきの山門を入ると本堂があり、
その左手の小高い丘には元三大師堂が建っている。
そこには、像高196.8cmの容貌魁偉な姿をした慈恵大師坐像(制作は鎌倉時代後期から南北朝時代と推定)が祀られている。本堂右手には、昭和50年に完成した客殿と、寺務所があり、芽ぶきの庫裡がその南に接している。
表からは見えないが、奥には書院と茶室がある。
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大師堂の左前方に建つ小堂は釈迦堂で、ここに著名な白鳳仏が安置されている。さらに山門より左手百メートル位離れた木立ての中に深沙大王堂がひっそりと建っている。そこに秘仏である深沙大王立像(鎌倉時代)が祀られている。
江戸時代初めの正保3年(1646)とその100年ほど前の火災のため、縁起や仏像、什器の多くを失うことがあった。
近世の深大寺は57世住職弁盛によってその復興が始まっている。
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文政、天保のころ(1818〜43)には、元三大師の信仰を中心にして栄えたが、そのころの深大寺の様子は「江戸名所図会
」に描かれている。それには今に残る深大寺そばを食している絵も載っている。
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浮岳山の山号額を掲げる山門は、慶応元年(1865)の火災から、常香楼とともに難を免れ、現在、山内では一番古い建物である。山門は元禄8年(1695)、常香楼は天保4年(1833)のものである。何度かの火災にあいながらも復興し、近年にいたって整備され、市内のみならず近郊、都外からの参詣客を多く集めている。
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四季の行事も多く、3月3日・4日の厄除け元三大師祭、だるま市は有名である。
深大寺の北隣りには、都立深大植物公園がある。
調布の七福神めぐりの一つである縁結びの神として拝まれている毘沙門天立像が釈迦堂の釈迦如来倚像の前に安置されている。
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深大寺の白鳳仏として有名である。台座に腰をかけ、全高83.9cm、坐高59.3cmある大型の金銅仏で、釈迦堂
(昭和50年新築)に安置されている。
この像は、元三大師堂の檀下にあったものが、明治42年に発見されて注目を浴びるようになった。
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本寺の分限帳(1841年)、明細帳(1898年)に銅仏の記載があり、深大寺の火災(1865)後、本堂より先に再建された大師堂に置かれていたらしい。しかし、これより先のいわれは不明で、近くの祇園時にあったという言い伝えもあり、謎の部分が残されている。
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わずかにほほえみを浮かべた清らかな童顔は、朝鮮、中国にその源流をたどることができ、薄い衣、流麗な衣紋はインドの影響を取り入れたものとも考えられる。鋳造の方法も、古代の他の金銅仏と同じ蝋型によるもので、像内は空洞、銅厚は約1cmと均一である。
火事にあったためか、肌は荒れており、鍍金はわずか一部に残っているのみである。専門家の調査によると7世紀末の制作と考えられ、白鳳時代であることから、白鳳仏と呼ばれている。
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朝夕、深大寺でつき鳴らされる梵鐘は、山門をくぐって右手にある鐘楼に釣り下げられる。
総高125.5cm、口径68.8cmのすんなりとした形の銅鐘で、鎌倉時代後期の特色をよく示している。
南北朝時代の永和2年(1376)、鎌倉の鋳造師・山城守宗光によって作られたものである。
竜頭は宝珠を中心に双竜が背中合わせした形をし、上帯には雲文、下帯には蓮華文を鋳出している。
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この銅鐘は、都内では港区、阿弥陀寺の銅鐘、板橋区・真福寺の銅鐘に続く古い鐘であり、同じ鋳工の手によるものが小松寺(千葉県)にある。
文政12年(1829)に建てられた旧鐘楼は、今の大師堂裏の高台にあったが、幕末の大火で焼失し、現在のものは明治3年に再建されたもので、江戸以来の鐘楼の一般的な造り方である。当初は芽ぶき屋根だったが、昭和29年に銅版ぶきに改められた。基壇上には、反響用の瓶を埋め、多孔の鉄板を蓋としてかぶせてある。
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この道標は、元三大師堂石段下左側に立つ高さ約240cmの石造物である。
元禄16年(1703)に江戸から元三大師堂に参詣に来る人たちの道しるべとして、現在の仙川町2-4の甲州街道に面して立てられていた。東京オリンピック開催にあたり道路拡幅工事のため取り除かれたが、価値あるものとして深大寺境内に移された。
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江戸時代、深大寺は関東屈指の寺で、厄除けのためこの大師堂にお参りする者が多く、道しるべとして大切な役目を果たしていた。
当時は、この道標の立っていた仙川から、現在の甲州街道の北側の道(深大寺道といっていた)を歩いて行ったと考えられる。「石原宿迄五丁近」と彫ってある。
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深大寺には、その起源、沿革を伝える縁起が3巻残されている。
漢文で書かれた『深大寺真名縁起詞書』1巻(縦35cm、
全長383cm)、仮名で書かれた『深大寺仮名縁起詞書』
1巻(縦36cm、全長943cm)と、それを絵にした
『深大寺縁起絵巻』1巻(縦36cm、全長943cm)とが伝えられており、いずれも非常に貴重なものである。
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『真名縁起詞書』は、江戸時代初期の慶安3年(1650)、
深大寺57世の住職弁盛によって書写されたもので、巻末に
正保3年(1646)の火災のあと、古記緑や古老の言い伝えを頼りに再編したものと記されている。
それをさらに補って、仮名まじり文に書き改めたものが
『仮名縁起』で、享保7年(1722)京都の公卿藤原公尹の筆によって書写されたことが巻末記によってわかる。
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絵巻を描いた画家の名は不明であるが、江戸時代中期の京都大和絵系画人と思われ、精巧な極彩色(金泥、金砂子使用)によって謹写されており、きわめて優れたものである。
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深大寺中横合狼藉禁止の『朱印状』(小田原北条家下付)
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原本は、縦31cm、横38.6cmの和紙巻軸1巻に表具されている。延徳3年(1491)、北条早雲がたって伊豆を戦略してより、5代100年にわたって小田原を本拠とし、関東に勢威を張った「後北条家」から、永徳4年(1561)深大寺に下付されたもので、横合狼藉を禁止した寺中護持の朱印状である。この文書に押されている後北条家の「虎朱印」は注目すべきもので、これによって、後北条氏が、家臣の深大寺中においての乱暴や、寺に対して無理な要求をさせないことを保証したものである。
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当時、このあたり一帯を支配していた大名よりの直接下付であり、深大寺を当地域における代表寺院と認めるとともに、その保護・統制強化を図ったものと思われる。
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この画は、元三大師堂正面向拝の天井全面に描かれたもので、河鍋暁斎が当地に足をとどめて残した作品である。
旧大師堂は、慶応元年(1865)の火災で焼け落ちたが、翌年ただちに再建されつつあった大師堂に板絵が揮亳されたというから、描きあがってからすでに100余年が経過している。その年月よりかなり墨色が薄れてはいるが、よく見ると、いかにも雄渾な巨竜の躍動する姿が描かれている。竜の尾の先が横柱にかくれて見えないのは、建築時の誤りといわれている。
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河鍋暁斎は、下総国(茨城県)古河市に生まれている。狩野派の筆法を学ぶかたわら、写生にも優れ、また文もよくして江戸に名声をたかめた人物である。その活躍は浮世絵版画、戯画草筆の分野にもわたり、明治4年暁斎と改名するまで狂斎と名のっている。明治22年4月、58歳で亡くなった。
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古い歴史と広大な寺域をもつこの寺には、当然のように老木、珍木が多い。
イヌシデは、別名シロシデあるいはソネともいわれ、カバノキ科の落葉喬木である。雌雄同株で5月ごろに新葉よりも早く開花する。雄花は黄褐色の尾状花穂で、前年の小枝から長く垂れさがる。雌花の花穂は淡緑色で新枝につき、果穂の長さは4〜8cmである。イヌシデのイヌ(犬)はひも状の花穂の形から名づけられたという。
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深大寺には3本のイヌシデがあり、それぞれ目通り幹囲
約2.5m、2.1m、1.9mの巨木で、深大寺の山門と同じく過去の火災の難を免れた古木と推定される。
武蔵野の雑木林は人々が親しんだところで、国木田独歩や徳富蘆花ら明治以来の文人、俳人がこよなく愛したところである。このイヌシデもこれらの人々に愛された木であったに違いない。
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巨木は山門前参道の寺院に向かって左側、バス停留場の
北西裏にある。当初4本あったが、昭和54年の台風で1本倒れ切り株を残すのみである。
そのほかにもキンモクセイ、ヒトツバタゴ(別名ナンジャモンジャ)、ムクロジ、キハダなど見るべき名木が多い。
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境内には訪れた枠人墨客などの足跡が、数多くの碑や搭でしのばれる。代表的なものを紹介する。
高浜虚子像(書院脇) 清水比庵歌碑(山門脇)
金原省吾歌碑(釈迦堂脇) 林光雄歌碑(大師堂東)
篠原温亭句碑(本堂前) 中村草田男句碑(本堂前)
芭蕉句碑(延命観音脇)
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深大寺乾門脇の坂道を登って左手に共同墓地がある。そこには砂円地蔵で知られる砂円の墓がある。また、墓地の中にある閻魔堂には、閻魔十王、奪衣姿、倶生神、鬼卒像など(江戸時代後期の作)が祀られている。
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